さて、一昨日の「1〜考えると言うこと」、昨日の「2〜本来の日本人って」を踏まえて、今の日本人を考えてみる。
元々、人と競争しない。自分と違う考えを認め合う、いつもおおらかに笑っていた日本人だけど....
テストの重視で、周りの人と競争することに没頭し、自分よりテストの成績が悪いと、優越感を感じ.....
学問!教養の為であった勉強が、そのために、テストのための勉強に代わり....
そのテストでは、すでに答え(しかもたったひとつの)が用意されており、それに外れれば、不正解。
悪友Sから聞いた話だが、
昔、ある大学の入試だったかで、狐狸庵先生(遠藤周作)の作品が出され、作者の意図するところは?と言う選択問題が出されたそうな....
(ちなみに、狐狸庵先生は「ぼくの思っていたことはこの選択肢にはない!」と怒ったそうである)
そもそも、思っていること考えていることに、あらかじめ答えが決まってるなんて....
ぼくは中学の国語の時間に、感じたままを言ったら、先生に怒られたことがあったのをきっかけに、学校の勉強が嫌いになっていった.....
その後のボクの勉強は、社会人になるまで、完全に試験のための勉強であった.....
このテストってヤツは、たとえ自分の点数が悪くても、周りがもっと悪ければ、成績はよいと言うことになる。
ある宗教家が言ってたが、子どもが80点とってきた。
よくできたと褒めてやる。
で、みんなの平均点はと聞くと「90点!」....
急に、「なんだダメじゃないか」
昔、共通一次試験(今で言うセンター試験)で、東大受験生がこう不満を言っていた
「問題が簡単で、みんなの平均点が上がると、差がつかない」と。
周りとの比較のための試験。
競争のための試験。
この競争意識は、戦後のあるところまでは、うまく回っていたのかもしれないが。
そのくせ、最近では、試験以外の競争はさせないそうだ。
運動会の徒競走の順位はつけない。
学芸会では、桃太郎が10人くらいいるそうだ。
な〜〜〜んか、アンバランス!
また、たったひとつの答えを求めるという癖?が、他人の考えを認めない!という風に変わっていったような気がする。
仏も神様も、違う宗派も認め合っていた日本というのは、外国とはちょっと違う特徴では無かろうか?
(まぁ今でも、七五三で神社に行き、キリスト教の結婚式を挙げ、死んだ時は坊さんにお経読んでもらう、という多神教ぶりを発揮しとりますが)
よく考えてみると、他の宗教の批判をする宗教って、日本では、新興宗教だけのような気がする。
いつも、答えはひとつ。
それを求めて、ひたすら知識を得る。
自分の考えや感じたことを、人前で発表する、人に理解して貰う、なんてことは、まず習得しない。
逆に、周りに迎合するのが、周りとうまくやっていくような風潮さえ作られた。
(これが出来ないと、いじめられる)
周りと議論しない、というのは理解し合っているからではなく、違っていても、そうでないふりをして、無難にやり過ごす。
でも、心の中は........
それが、大人になり爆発する。
元々、自分と違う考えを認める努力をせず、認めて貰う機会も与えられていない学校教育。
他の意見を認めない!他を下げしめること(点数を下げる)で自らの存在価値(成績)をアピールする!
これは、試験(重視の学校教育)の悪影響だと思うんだけど、
今の政治が、まさにこの悪影響の表れだと思う。
「受験地獄」「受験戦争」なんて言葉が現れた頃に、その受験戦争を勝ち抜いてきた世代が、今、政治の中心だからね。
まぁ、そんな画一的な、金太郎飴教育からの脱却てことで、ゆとり教育なんてのが導入されたんだけど、
ちょっと、舵取りを間違えたようだね。
今年から?、脱ゆとり教育が始まるそうだ。
学校養育が、「考える」「自分の考えを主張する」より「教わる」「知識を得る」「たったひとつの正解を“選ぶ”」ということに重点が置かれていたというのを実感する、この半年だった。
情報を見て、考えることをせず、そのまま受け止める(鵜呑みにする)。
ただ、相手を攻撃する。
どういうことかというと......
.......次回!
んじゃ (^_-)☆ /~~~
▽ポチッとしていただければ嬉しいです(*^_^*)


